”親切な”商品化住宅
『建築と社会』1990年1月号掲載
今では、「家を買う」という言い方が、一般的となっています。そして家を建てようと思う人は、住宅展示場へと足を運びます。…………
ぼくが思うに「商品化住宅」は親切なんです。そこに住む人が何を望んでいるのか、細かいことまですぺて考えてくれます。「あなたの好きな住宅は、こんな住宅です。」というように、「ぼく」がまだはっきりとわかっていないことまで教えてくれます。きっと将来、「ぼく」がイメージした住宅をコンピューターがそのまま実現してくれたとしても、それが本当にぼくが望んだ住宅なのか、そんなことぼくにだってわからないでしょう。人の望みなんて、次から次に移り変っていくものではないでしょうか。それを一つ一つひろいあげてみたって何もできやしないと思います。ぼくは「商品化住宅」のそんな親切なところが、見ていて疲れてしまうんです。
「商品化住宅」は本当に親切です。お金さえあれば、何でも簡単に手に入れることができます。でも、本当に何でも手に入れることができるのでしょうか。たとえば、ばくの住んでいる近くには市場がありません。立派なスーパーがあるだけなんですが、そこでの買物は何でも売っていて、とても便利なんです。でも新鮮な魚を食べることができません。くだものもほとんどがビニールパックの中に入っています。あらゆるものが親切に、清潔さを大切にするためにパックされています。そして値段も割高になっています。手に入れることができるものは、商品化が可能なものだけなのです。
また、簡単に手に入れることのできるということは、喜んでいいことなのでしょうか。フェデリコ・フェリーニが、こんなことを言っています。「映画とは、ある話を撮影している最中に、その映画の登場人物と同じぐらい素晴らしい人たちと、また別の冒険を生きるという、二重の喜びを奇跡のように与えてくれる芸術だと気づいた。」この魅力あふれるプロセスをぼくは大切にしたいと思います。
でも、「商品化住宅」は「商品としての住宅」を追求した住宅ですから、当然商品価値は高いものです。今後ともますますその商品価値を高めていくでしょう。すぺてのものを巻き込んでしまう。本当は商品化住宅の外側にあるものと思われるものさえもどんどんその中に吸収して行ってしまう。建築家の提案も、未来への夢も、過去へのノスタルジアもすべて商品化してしまうのでしょう。ぼくは、商品化住宅は親切すぎると言ってきました。こう言えば、きっと「親切すぎない」商品化住宅が出て来るでしょう。もし、ぼくが商品化住宅を好きになれないとしたら、あなたのそんなところです。
「商品化住宅」は本当に親切なのかもしれない。世の中は、こんな住宅を望んでいる。現代人の住宅は、こうあるべきだ。というように世の中の動きに敏感です。でも、ぼくは、ぼくにこだわることを大切に思っています。そのきわめて個人的なこだわりに、他の人も共感をもってくれればいいなあと思うんです。かつて、ぼくが感動したことを覚えている日常の風景、迷路のような路地、長い廊下、あそぷのに楽しい階段、物干し、屋根。そんなものを、もう一度とらえてみたい。これは、過去を単に懐しむという意味でのノスタルジアでは決っしてないと思います。森田芳光監督の映画「家族ゲーム」の中で、好きなシーンがあります。『夕暮れの把握」主人公の中三の少年が、家庭教師(松田優作)に国語の教科書に出てくるわからない語句を全部抜き出し、その意味を書くように言われた時、彼は「夕暮れ」と何べ一ジもノートに書く。そのあと、彼が何とも満足感にひたった表情で、「いま、夕暮れを完全に把握しました。」といったシーン。映像ではその時すばらしい夕暮れが映し出されます。そんなシーンがとても好きです。知識じゃないんです。情報じゃないんです。世の中、情報が多くなりすぎているような気がします。
でも、商品化住宅への建築家の参加は賛成です。ぼくは建築家の仕事の範囲を限定する必要は全くないと思います。現代社会の中で仕事をしていくわけですから、時代によって仕事の内容が変わるのは当然だと思います。ただ、その中で自分へのこだわりはなくしてはいけないと思います。
最後に、商品化住宅について考える時に、隈研吾さんの「10宅諭」をたいへん参考にさせていただいたことを書いておきたいと思います。「10宅諭」は、「今日の日本人が実際にどういう住宅にどんな気持ちで住んでいるかをできるだけ正確に記述しようと思った。」という主旨で書かれているわけですが、その中の「アーキテクト派」と「住宅展示場派」は読んでいて非常におもしろかった。「アーキテクト派」の中で、建築家に住宅を依頼する人は何を求めて建築家に自分の家の設計を頼むのか。「建築家との知的交流に意味を認めて…」ではないだろうか。「デパートの外商の人間では多少物足りないと考える奥方も、建築家との打ち合わせ、世間話、芸術談義からは充分な満足を得ることができる。」と書かれているあたりは、奇妙な説得力があった。